南京大虐殺(婦女暴行、強姦の実態-2)
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婦女暴行・強姦の実態(1)


この様な事が「戦争」の時に起きたが、その実態について読んだ事のある人はそういないと思います。ジャカルタで当時起きた事は、市内が「戦争状態」にあったと言えよう。

 

南京大虐殺のニュースは世界中の怒りと非難の対象となった。罪の無い市民の組織的虐殺、特に婦女子に対する残酷  な強姦はひどいものだ。これゆえに西洋ではこの事件を「南京の強姦」と 呼ぶ。また、マンチェスター・ ガーディアン紙の  ティンパレーはこの事件を「人間の文明の最も暗い一ページ」と呼んでいる。日本軍がどんなことをしたかの詳細は東京  裁判 (国際極東軍事裁判)の記録に詳しい。「おびただしい数の強姦が行われた。 

本人自身が抵抗するか、家族のものが助けようとして少 しでもはむかえば、死が待っていた。未成年の少女でもおばあさんでも見境い無し。まったく異 常としか言いようの無い猟奇的行為の連続であった。多くの女性は性行為の後で殺され、 体を切り裂かれた。 無力の女性に対する性的虐待は前代未聞である。レイプした後に殺す、これが日本兵のいつものパターンである。 

一九三八年七月、中支那軍最高司令官岡村寧次は次のように認めている。「南京戦の時に何万という市民に対して略奪、強姦があったことは事実である。」 読売新聞従軍記者小俣行男は「中国戦線従軍記者の証言」の中でこの事実を証明している。「強姦をしなかった日本兵等ほとんどいなかった。女性は強姦されたあとは必ずといっていいほど殺された。」 

東京裁判で国際検事により提出された証拠の中に大本営から司令官に出された秘密命令があっ た。その命令は兵士が日本に帰還した後は中国での虐殺のことは口にしてはならぬというもので あった。また、中隊長からの兵士への命令も証拠として 提出されている。事を済ました後に不必要なトラブルを避けるための日本兵の処方箋: 
 1) 金をやること。 2) 殺すこと。 

第十軍兵士、東京の岡本健三は告白する。「私たちは杭州湾に上陸した時から女に飢えていました。上官から、女に手を出 したら、後で殺せ、しかし、銃剣で刺殺したり、銃殺はするな、という不文律のようなものを聞きました。これはおそらく証拠隠 しのためでしょう。しかし、処罰 規定など事実上空念仏でした。今まで処罰された者は一人もいません。兵卒よりひどい上官もい ました。中隊長、大隊長でも女を誘拐し付き添わせて南京入城を果たしたのもいます。これらの女性は夜には性の玩具にされるのです。金を払って買ったものではなく誘拐してきたものなのです。兵卒は女性を付き添わせることは禁止されていました。 しかし、上官の行動を見て、まじめ に軍紀に従っても意味が無いことを悟ったのです。 

第百十四師団上等兵田所耕三も同様に告白する。「女性が最大の犠牲者でした。おばあさんであろうと少女であろうとお構いなしです。われわれは下関から郊外までトラックを走らせ小さな 町や村から女を誘拐していきました。そして、十五人から二十人の兵士のグループに分配します。 暖かい倉庫の壁に木の葉や枝を使って兵士は急場しのぎのハーレムを作りました。兵士はみんな 中隊長の印が押してある「赤券」を渡され、ステテコ一枚で行列に並び、番を待つのです。 東京裁判の判決は次の通りである。「南京占領後一ヶ月の間に約二万件の強姦が行われた」。これはたいていの統計よりはるかに低い数字であるが、東京裁判で認定できたのは二万件にすぎなかった。 国際赤十字委員会のジェームズ・マッカラム牧師(Reverend James Mc Callum)は東京裁判で 証言した。  「レープ、レープ、レープ、どこを見ても強姦でした。毎晩少なくとも1千件の強姦がわれていました。」 

南京大学米人教授であり南京安全区国際委員会委員のベーツ博士(Dr. M. S. Bates)も証言した。「一九三八年二月六日からその年の夏まで多くの虐殺はまだ続いていました。」安全区内の国 際委員会が作成した統計では、 「少なくとも八万人の女性が強姦された。」 このおびただしい数の強姦がどのくらいのスケールのものであったかは南京にいた日本兵の数と共に占領の期間と地域を調べればだいたいわかるであろう。 

    (1) 南京戦にたずさわった日本軍は十個師団以上であるが、八個師団以上が侵略戦をした。(日本の一個師団 
           は普通二万五千名で構成される。)十二月十三日から十二月二十一日まで南京とその近郊 にいた日本兵は 
           少なくとも十万であった。 
    (2) 強姦は二ヶ月以上にわたって行われた。南京国際委員会による強姦事件の報告は一九三 八年二月七日まで 
           には終わった。 しかし、実際、安全区が解散した二月九日以後も強姦は 続いている。 
    (3) 当時南京市は十二地区を管理していた。 

市内六地区と郊外六地区である。日本軍は市内で あろうと郊外であろうとあらゆるところで犯罪を犯した。殺人と強姦は信じられないくらい残酷なものであった。ある外国人居住者が日記に書いている。 

「十二月十七日金曜日。略奪、殺人、強姦の勢いはまだ衰えない。昨晩だけでも強姦件数は千人を下らない。一人で三十七回も辱めを受けたという女性もいた。また、強姦中に五ヶ月の幼児が泣きだしたため日本兵に窒息死させられたという人もいた。抵抗すれば銃剣が待っていた。目撃者の李克痕はその著作「南京陥落後の五ヶ月間」の中で書いている。「通りにはおびただしい 数の死体が横たわっていた。輪姦され殺された人たちである。みんな丸裸にされ、乳房は切り取られ、暗い褐色の穴があいている。お腹を銃剣で切り裂かれている者もいる。はらわたが現れている。丸めた紙や木片を膣内に押し込まれた死体もある」。南京占領から数週間の間に約十万の日本兵が人間性を失った。彼らは市内のあちこちに女性を求めて走り回り、世界を震撼させた犯罪を犯したのである。 

十二月十五日以降の状況をデビッド・バーガミニ(David Bergamini)は記している。「捕獲した獲物の中から美人と教育のある女性が選び出され、将官のハーレムで性の奴隷になる。運の悪いものは兵士が収容されている建物や講堂に送られた。陵辱を受けて処刑される者もいる。多くのま だ幼い少女は男の荒々しい野蛮行為により数日後に死亡する。 また多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。女性は家にいても、通りを歩いていても、国際安全区に逃げ込んでも強姦から逃れられなかった。 市内にいても田舎でも同じである。南京の町全体が日本軍の犯罪の餌食となったのである。これは 日本軍隊の組織的趣味とでもいえるものだ。次は南京大虐殺の生存者の証言である。 

当時四十五歳で一九八五年に八三歳になった張という男性は語っている。「日本軍は一九三七年の冬に南京に侵略してきました。当時私の家族は下関の実善通り、徳思過通りのアパートに上層に 住んでいました。日本軍が下関にきて三日目に三人の日本兵が私の家に土足で入り込んできました。 彼らは私の母と妻と義理の姉を強姦しました。そして私を殴りました」。 

南京埠頭の初老の労働者姜根福さんは記憶している。「一九三七年十二月十二日、日本の侵略者は 中華門入城の途中殺人、略奪、放火の犯罪を重ねました。中央路と北中山路は血塗られたハイウェ イと化しました。当時、私は七歳でした。鬼のうな日本兵から逃げるために私の親は私たちを沼 に連れていって隠れていました。ところが生まれて三ヶ月の弟が母親の乳欲しさに泣き止みません。 とうとうそばを通った日本兵に見つかってしまいました。日本兵は私の母を見つけて強姦しようとしましたが母の必死の抵抗に遭いました。日本兵は幼い弟を奪い、地面に強く叩き付け、殺してしまいました。今度は泣き叫ぶ母を撃ち殺し死んだ赤ん坊のところに投げ捨てました。次に十一歳の姉に目をつけて強姦しようとしました。 姉はとっさに逃げましたが、数人の日本兵に追われ今の運河学校附近で捕まりました。 姉は憎しみで蹴ったりわめいたりして抵抗しましたが、野蛮な日本兵はこれに怒り、刀で妹を真っ二つに斬ってしまいました」。 

一九八五年時七十八歳の沈錫恩さんはイスラム教徒だった。彼は一九三七年十一月十七日に安全 区の豆菜橋二十八号に引っ越した。九人家族だった。彼の家の近くのアパートに隣人の李擴飛さん (当時二十八歳の女性)が母親(当時四十歳ぐらい)と同居していた。 一九三七年十二月、二人の日本兵が沈錫恩さんの家に押し入った。李擴飛さんは三歳のと遊んでいた。二人の日本兵は赤ちゃんを奪い壁に投げつけ次に李擴飛さんを部屋に引き摺り込み強姦し た。沈錫恩さんは今でもはっきり記憶している。 

一九三七年十二月十九日、李秀英さんと他に六、七人の女性が上海路にある学校の防空壕で避難していた。突然日本兵が現れ乱暴しようとした。李秀英さんは一人の兵隊の腰の鞘から銃剣を奪い 激しく抵抗した。彼女は頭で兵隊の胸に体当たりした。慌てた日本兵は笛を吹いて仲間に助けを求 めた。この間に他の女性は脱出するチャンスがあった。李秀英さんは日本兵をしっかり捕まえてい た。他の兵隊は女性を逃がし、レイプできなかった腹いせに彼女を三十三回も銃剣で刺した。 彼女は気を失った。後でウィルソンというアメリカ人医師であり牧師でもあった人に助けられ、一命を 取り留めた。戦後になって東京裁判で三十三回も刺されたこの強姦、殺人未遂事件は南京での日本軍の残虐な強姦を裏付ける動かしがたい証拠となった。 秀英さん自身の証言の他にも李秀英さんの顔やから だの傷の手当てをした鼓楼病院の医者や看護婦の傍証もあるし、外国人によって助けられた李秀英 さんのドキュメンタリー・フィルムも残っている。 これらの証言は南京において日本軍によって行われた強姦を証明するものであるが、これは氷山の一角に過ぎない。南京安全区の国際委員会はこれらの犯罪に抗議している。 

次に挙げるのは日本 軍の暴行に対して抗議された四百三十六件の抗議文の一部である。 

第4件目 十二月十五日夜、七名の日本兵が南京大学図書館に進入し、七名の女性を誘拐した。そのうち三名はその場で強姦された。 
 
第18件目 十二月十五日夜、南京大学宿舎にたくさんの日本兵が進入。三十人の女性を強姦し た。六人から襲われた    人もいる。 
 
第41件目 十二月十七日、司法院附近で強姦された若い娘が腹部を刺された。 

第53件目 十二月十七日午後三時、大方巷十号の難民区で三人の女性が日本兵にかわるがわる 強姦された。     また、一人は銃弾を受け、重傷である。 

第105件目 十二月二十一日、緊急避難のため近くに住んでいる女性が昨晩から強姦されたとし て約百名が国際委員会本部に保護を求めてきた。(その前に来ていた女性は南京大 学に移されていた。) 

第146件目 十二月二十三日午後三時、漢口路小学校難民収容所に二人の日本兵が略奪のためや って来て、職員の 黄小姐さんを強姦した。その夜他の日本兵がやってきて王さんの 娘を強姦した。午後七時ごろ三人の少女が漢口路小学校 にやって来た。みんな日本 兵に強姦されていた。その中の一人は十三歳であった。 

第148件目 十二月二五日夜、七人の日本兵が聖書訓練学校収容所にやって来てその晩は泊まった。 午前九時には四人、 午後二時には三人が来た。彼らは服やお金を奪っていった。そし て二人の女性を強姦した。一人は十二歳の少女である。 

第151件目 十二月二十二日、南京大学養蚕校舎で二人の日本兵が十三歳の難民の少女を強姦した。 その母親は    止めよ うとして負傷した。もう一人二十八歳の女性が強姦された。 

第154件目 十二月二十六日午後四時、陳家巷六号で十三歳の少女が三人の日本兵に強姦された。 

第175件目 一九三八年一月元旦午後四時、漢口路甲十一号の南京大学校舎(アメリカ経営)内で三 人の日本兵が 十四歳の少女を強姦した。 

第178件目 一月三日。十二月三十日銅銀巷六号から他の五人と一緒に名義上は日本軍将校の洗濯 娘として連れ去られた女性が大学病院にやって来た。彼女は町の西中央部の日本軍の 病院のようなところに連れて行かれたと述べた。  女性たちは昼間は洗濯、夜は性の慰み者にされた。年配の女性は十回から二十回強姦され、若くてきれいな女性は一晩四十回も相手をさせられた。一月二日、二人の日本兵はわれわれの患者を人気の無い校舎に連れて行き、銃剣で十回刺した。彼女は首の後ろを四回斬られ、脊椎のところま での筋肉が切断された。また、手首に 一回、顔に一回、背中に四回刺された。彼女は 時間が経てばおそらく回復するだろうが、首が自由に廻らないように なるだろう。 

179件目 一月三日夜、肉体的にまだ未発達の十四歳の少女が強姦され、大手術を要する重傷を 負った。 

第180件目 一月八日、五,六人の日本兵が、強姦後、銃を発砲し三十二歳の李という女性に負傷 を負わせた。 

第181件目 一月八日夜、高関四十五号の袁さん宅に四人の日本兵が押し入り三人の女性に乱暴した。年齢は21歳、25歳、29歳)女性が言うことを聞かないと銃を発砲した。 

182件目 一月七日、二人の日本兵が梓北謝七号で若い女性を強姦しようとした。張富熙さんはこ れを阻止しようとしたら銃剣で刺された。 

第183件目 一月八日午後六時、三人の日本軍の飛行士が跨橋四号で高という十八歳の女性を強姦し て銃で乱射した。日本兵の女性に対する陵辱は占領後1ヶ月たっても収まらなかった。逆に戦いが無いときに激し さを増していった。兵士は酒をのみ性欲のはけ口を求めて何ヶ月も傍若無人に振る舞う。このこと を一九三八年一月十日アメリカ人が上海の友人に宛てた手紙に記している。「大学の敷地内だけで も十一歳の少女から五十三歳の女性まで強姦されている。ほかの難民の中には七十二歳、七十六歳 のおばあさんまで容赦無く強姦されている。神学院内では白昼堂々と十七人の日本兵がよってたかって一人の女性をレープした。実際、強姦の三分の一が白昼に行われている。次に一九三八年一月 十三日以後に安全区国際委員会が報告した事件を列挙する。(これらの期間中は南京の他の地区は 外国人の目撃者はいなかった。) 

第190件目 一月十四日、この家族は南京大学付属中学校からの帰り道、日本兵に新しい登 録証をもらい、これを玄関に張っておくと日本兵がやってくることはないといわれた。彼らはそうしたが、一時間以内に三人の日本兵がやってきて男性を放り出し、女性を五回強姦した。それで一月十五日、彼らは中学校に戻ってきて 避難した。 

第195件目 一月十七日、南京大学付属中学校に住む家族の男女が自宅に戻った。家は南区 の新開発区にあった。そこに日本兵が一人やってきて女性と寝ることを強要し た。彼女が拒絶すると日本兵は銃剣で刺し殺した。 

第210件目 一月二十一日夜、二人の日本兵が高家丘関四十四号にやって来て女を出せといっ た。運良く女性は皆前日南京大学付属中学校に行っていた。日本兵はたばことお 金を要求した。その家族はとても貧乏であった。それで日本兵は隣に行き、そこ で二人の女性を見つけ、夫の目の前で強姦した。二十二日その二人の日本兵は他に二人を連れて家の前で立ち止まり、高笑いした。


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